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義民のあしあと

PINGが送信された記事一覧 (全10件)
  • 七義士神社(大西権兵衛と西讃百姓一揆)

    寛延3年(1750)、讃岐国(香川県)丸亀・多度津藩領では飢饉による年貢減免を求めて6万5千人規模の「西讃百姓一揆」が起こり、藩は要求の多くを認めたものの、後に三野郡笠岡村(今の三豊市)の大西権兵衛ら (...続く)

  • 元文一揆発頭人慰霊碑(北野村藤九郎と横仙一揆)

    元文4年(1739)、不作が続く美作国勝北郡(今の岡山県)の幕府領で百姓3千人が蜂起し、野非人の扮装で富家に押し掛け米や金銭を要求し、鎮圧後に北野村(今の勝田郡奈義町)藤九郎・与三右衛門が死罪となりま (...続く)

  • 頼杏坪充糧碑

    広島藩儒として知られる頼杏坪は、備後国(今の広島県)三次郡の代官などを歴任し、荒廃した農村の立直しにも取り組んでいます。神社で敬老会を催し民心の掌握に努めるとともに、飢饉対策として領民に実のなる柿の木 (...続く)

  • 沢君遺愛之碑

    江戸時代、尾張国中島郡(今の愛知県稲沢市)は湿気の多い土地柄のため百姓は難儀をしていましたが、尾張藩の清須代官となった沢園兵衛は、須ヶ谷川の開削を進めるなどしてこの窮状を救いました。地元では沢園兵衛を (...続く)

  • 井戸平左衛門の墓

    江戸時代の享保年間、大田代官・笠岡代官となった井戸平左衛門は、「享保の大飢饉」で深刻な状況にあった村々の年貢を減免するとともに、陣屋の米蔵を独断で開いて飢えた人々に食糧を分け与えました。また、救荒用作 (...続く)

  • 早川代官遺愛碑

    江戸時代の天明年間から久世代官・笠岡代官を務めた早川八郎左衛門正紀まさとしは、赤子間引きの禁止や農桑の奨励、学校創設などさまざまな施策で疲弊した農村の復興に尽力し、4度にわたる留任願いが出されるほど領 (...続く)

  • 酒井七左衛門の墓

    境川の水害に悩む美濃国(今の岐阜県)の松枝輪中の人々は、尾張藩の代官を通じて築堤を願い出るものの認められず、畑に盛土をして堤防代わりとする「畑繋堤」を自前で築きました。無届けの「畑繋堤」は何度か取払い (...続く)

  • 石黒神社

    鹿田かった代官の石黒小右衛門政宇まさずみは、宝暦5年(1755)に旭川の大洪水があった際、飢えに苦しむ美作国真島郡向津矢むかつや村(今の岡山県真庭市)の人々を救うため独断で年貢を半減し、幕府の許しが得 (...続く)

  • 郡代塩谷の碑

    江戸時代後期、塩谷しおのや大四郎正義は19年にわたって豊後国日田郡(今の大分県日田市)の日田代官・西国郡代を務め、小ヶ瀬井路の開削や三隈川の通船工事など、民政面で多くの実績を上げました。塩谷大四郎が郡 (...続く)

  • 滝本の代官塚

    江戸時代中期、美作国(今の岡山県)の幕府領で代官を務めた重田又兵衛信征のぶゆき・池田仙九郎但季ただすえの両人は、困窮した農村を救済して領民から慕われ、勝北郡北野村(今の勝田郡奈義町)に両人の名を刻む「 (...続く)

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