認知資本主義への批判
認知資本主義への批判
アルゴトレードのような、純粋に他人を出し抜くことだけを本旨とする投資(「捕食獣的活動」)が主流となるような金融市場に現代資本主義の特徴を見た上で、このような「架空資本」の現象を以下のように捉えたがる者(「認知資本主義者」)がいると批判する。 投資家をある種の「エージェント」としてとらえ、投資活動をそれらの額や活動回数といった「数」の問題ではなく、「語り narrative(s)」あるいは「物語 story(stories)」と措く観点も―「エージェント」には語りや物 語の倫理性があくまで欠如しているのだが―しばしば見受けられるようになっている。
だが現代の金融市場がもはやアルゴトレードによって支配されているのならば、、、↓
「語り」や「物語」といった観点を金融市場に持ち込み、現在の資本主義の問題の根幹を捉えようとする試みは、無力であり不毛である。なぜなら、そうした試みをなしている論者たちは、おしなべて、ある種の人間中心主義的「人間=主体」観を立脚点とし、「人間的なプログラム上のエージェント」を措定しているからである。
その流れでマラッツィも批判される
マラッツィは、「ポスト・フォーディズム経済」においては言語‐コミュニケーション 行為と生産労働が重合し、言語が直接的に生産力になっていることを示そうとする 。そのために彼は、ドゥルーズ/ガタリ風の「言語機械〔macchina linguistica〕」なる無規定な用語を導入した り、「経済学の言語論的展開〔svolta linguistica dellʼeconomia〕」などと、概念としては定立できない「ポスト構造主義」的「表現」を述べてみせる。だが、「言語が直接的に生産力になる」などとい うことはありえない。たしかにフェルディナン・ド・ソシュール以降の構造言語学は、言語の音声的差異が人間の知覚を構造化する、としてきた。しかし言語がそのままにして物質的な生産力になるはずなど、ありえないことである 。 「言語がそのままにして物質的な生産力になるはずなど、ありえないこと」の根拠は次の通り。
『ドイツ・イデオロギー』「フォイエルバッハ」章中には、次のような叙述がある。「「精神」〔“Geist”〕は 本来的に物質に―この場合それは運動する空気の層、音、言語〔Sprache〕の形態で表わされる― 「憑 りつかれ」 る〔“befahtet”〕という呪いをかけられている。言語は、意識と同じほどに古い―言語は、他の人間たちのためにも存在する実践的意識であり、そのことによってはじめて私自身のためにも存在する現実的意識であって、さらに言語は、意識と同様に、まずは他の人間たちとの交通の欲求、つまり必儒なことから生じたものである」。この場合の言語は振動する空気=音波とい う点で「精神」に「憑りつく」物質性をもっており、それが社会的交通によってはじめて意識たりうるというのである。言語=物質力なる短絡は、そこには存在しない。
マラッツィとかアパデュライの発想は資本主義と類的存在としての人間との根源的対立構造を取り逃す
大な架空資本の運動が全世界の生産と労働の分配を規定している現実、およびその運動の結果とし て、〈生産‐労働〉・〈人間‐人間社会〉を否定していこうとする傾向性とを、「認知資本主義」論は 捉えることができない。つまり、今日の資本主義が、類的存在としての人間の存在そのものに根源 的に敵対している現実を把握することが、まったくできないのである。