変えるのは、現実の創造のベースになっている信じていること

何度も書いてますが、私のオリジナルがいないので、私はあらゆることを自分じゃない自分で見ており、まるで舞台裏で劇を見ているような感じですが、私が思うのは、人間が反応するもの、それはこの経験にはこう反応すべきというすり込みとをベースにそれを信じるということだと思います。過去世とこの人生のすり込みです。

何か新しいことをするなら、お金のこと、思い通りに行かない場合のことを想定し、怖がる反応をしなくてはならないというのも自らのものではなく、外部からのすり込みであり、それを信じて現実を創造しているということです。私はこういう人間だという自分への定義もそうです。信じているものをベースにあらゆる状況にこう反応するということを自分の自然な反応のように勘違いしているだけです。

人間はあらゆることをまるで1つしか存在しない真実のように信じ、それにもとづいて現実を自ら創造しています。これには恐怖で反応しなければならないというすり込みを信じ、あらゆることを怖がる現実を創造しています。それぞれが信じることにもとづいて現実を創造する力があるなら、信じていることを変えれば全く違う現実も創造できます。一歩、離れてすべてを見つめるだけで、信じていることの元々って普遍的真理でもなんでもなく、単純に外部のすり込みでしかないことに気づけるのではないでしょうか?

今この時点で過去の影響を受けないというのは過去を考えないということではなく、もう今を生きることに過去のネガティブな影響は受けないという生き方なんじゃないかと思います。過去世も含めて私が過去にしたこと、されたこと、本当にどうでもよく、思い出しても感情的にもならないし、反省会も始めません。終わったこと、もう思い煩わないということです。意地悪をした側、された側、どちらであっても犠牲者はないし、お互いに経験を与え合い終わったこと、さあ、自分はどう新しく今を生きるか、それだけです。この瞬間までの過去さえ今に影響を与えない生き方をすることじゃないかと。今、この時点で過去をやーめたってやめられます。簡単なことです。

嫌だ、嫌だ、変えたいと言いながら信じていることを変えようとしない人たちへのアドバイスはないと思います。変えるのは、現実の創造のベースになっている信じていることですが、信じているものを変える、つまり信じていなかった未知に飛び込めるか飛び込めないかです。未知に飛び込むよりも今の痛みと不快さの方が慣れているから変えないし、私はこういう人間だという自分への定義を変えずに本当の自分を知ろうともしない、本人の明確な選択です。

伊藤仁彦