陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

法はときに無情で善き人々を苛むことさえある

2024-05-05 | 政治・経済・産業・社会・法務

この雑記は憲法記念日に向けて書きたかったのだが、うっかり過ぎてしまった。

NHKの朝ドラ「虎に翼」を楽しく拝聴している。
日本で初めての女性裁判官になった実在の人物をモデルにしたオリジナルドラマ。女性が無能力者とされ家父長制がまかり通っていた戦前、世の中を変えたいと法学を学ぶヒロインたち。彼女たちの苦闘と協働に喝采を送りたくなる。

その背景はさまざまだ。身売りされそうな実家から逃げ、社会に殴りかかりたいがために苦学生をする者。目に見えぬ民族への偏見に耐えしのんでいる留学生。心理的暴力をふるう夫に背き、我が子を守りたいがための母親。家の維持のための結婚から逃れたい御令嬢。そして、明るく前向きで疑問をすぐ口にする闊達な主人公は、お人好しの父が巻き込まれた冤罪の裁判で、勝訴を得んがために、仲間とともに奔走する。

半沢直樹のような社会悪をコテンパンに打ちのめす勧善懲悪といったものでもない。
ヒロイン家族以外の殿方には、女性の社会進出に無理解な御仁もわんさかいて、軋轢もある。その一方で、専業主婦の苦しみも描かれる。私たちはよき妻、よき母親といえば、サザエさんのような明るくひょうきんなイメージを浮かべがちだが、昭和までの大家族はみな和気あいあいとして仲がいいというのも、つくられた幻想なのだ。

さらには女よりも前を歩いていかねばならないという、男性陣たちの苦悩や弱さもあからさまに描かれる。家督を継ぐ長子にも、一族を背負う、家の存続という重圧があった。
フェミニストを気どる学級委員めいたエリート男子の二面性はまあなんとも巧妙で、いるいる、こういう男の子!と膝を打ちたくもなった。男はつらいよの寅さんみたいな風来坊よりはよほど好男子なのに、女はなぜか危なっかしいオトコ(あるいはツンデレなボーイッシュ女子)を好きになりがちだ。優等生でいること、つねに勝者であることは、かなりしんどい。

夫婦はもともとは他人どうしである。同じ遺伝子の流れたきょうだい親子であっても、同じ価値観を分かちあえるとは限らず、憎しみいがみ合うこともある。子どもは親の意のままにならないし、生まれた親を選べないし、成人するまでは自由を奪われる。組織に合わせられない、同調できない人間は、法で裁けないギリギリな圧迫で排除されていく。仲のいいご近所や親戚は、裏返せば、干渉しすぎ社会ともなる。労働者は会社にやりがいや社会貢献、スキルアップという美名で搾取される。まず、まっさきにお金のトラブルで友情はすぐに崩れ去る。

法律はこうした人類の問題をすべて、きれいに片付けることができるだろうか?
目には目を、のハンムラビ法典のような喧嘩両成敗よろしく原始的なやり口ではなしに?

法は差別や虐待を禁じてはいるが、微妙な人間関係の綻びに立ち入るのは難しい。
誰かが私を攻撃する。その加害はどういった法律違反だろうか? どの機関に、どこの専門家に訴えればいいだろうか? なまじ、法律を知っているばかりに、叩きのめす口実が欲しくなる。判例があるから、ないからで一喜一憂もする。考えるだに疲弊する。時間ばかりが奪われる。

十年も前に行政書士の資格を取得したときに、私は自分で戦える武器ができたようで、うれしくてたまらなかった。
過去のいろいろなことにあてはめて、判断材料が増えた。学歴を欲しがる人にはわかるだろう。ひととうまく関係を築けず独りを好む人間にとって、知識があることや、相手を打ち負かすような論調は、うまく生きていく術のように信じられたのだ。だが、それは満足のいくものではなかった。

法律はその大切さを理解できない人にとっては、まったく意味をなさないのだ。
信じれられないがそうなのだ。無効化されてしまう。行政でも効率を重視すれば、増えつづける被害者を全面救済できるわけではない。国連というものがあるのに、大国の起こした戦争や民族紛争を弾劾することができない。経済成長ファーストを掲げる組織にとって、個々人の不健康や不安は無視してもいい小事なのだ。

朝ドラのヒロインは、くしくも憲法記念日の放映日、父親たちの無罪判決を導いた因縁の裁判官に対しこのように語る――「法とは清らかな水源のようなものじゃないかしら」と。
自分の正しさを主張するための刃でもなく、資産や権利を守るための盾でもない。法自体が権力や感情に踏みにじられないように守るべきものである、と。このヒロインは今後も、法の泉が枯渇し、また濁るできごとになんども遭遇していくのだろう。日本国の領土が史上初めて海外軍勢に占領され、その憲法が異国によってつくりかえられる、あの戦争を乗り越えて。

現実では、こうだ。
なぜ、この人はあれほど違法なことをしでかしているのに、社会的地位が高いというだけで、裁かれないのか? 周囲はそれを受け入れ、傍から見れば虐げられているのに、むなしく諦めているのか? 被害者のほうがなぜか世間から批判を浴び、プライバシーを暴かれることがある。傍観者も義憤が湧くだけで心を削られていく。法の裁きは多数決ではない。公正な裁判官は身近におらず、法に頼るにもハードルが高い。

たとえ、裁判に勝ったとしても、解決金が懐に転がり込んでも、ハラスメントな関係が解消されたとしても、互いの心には一生涯消えぬ傷口が残るだろう。れっきとした加害者はもちろん、火の粉が降りかからぬようにと距離をおいたなじみの人間にさえ不信が募り、一時は誰も愛せなくなるだろう。法律はかならずしも問題をゼロスタートに戻す薬ではない。ただ、痛みがあふれ出ないように絆創膏を増やすだけだ。

毎年、この記念日が近づくたびに、日本国憲法あるいはこれに付随する法典の是非が問われている。
第九条の改憲だとか。同性愛結婚だとか。日本国象徴たる天皇に女性を、などなど。そもそも、日本国民とは誰なのか? 立法組織の構成メンバーをただしく選ばなければ、法は権力者のいいように捻じ曲げられてしまうのだ。

法律を愛する者は、自身を第三者の目で見ることができるのか。
自分に有利なような条文を探していまいか。権力者に媚びて、保身のために法を汚してはいけないのか。組織の潤滑油のために、ゆがんだルールを適用して納得させていないのか。都合よく改訂して、さかのぼって事実を隠ぺいしていないのか。法律は自分の優秀さをお披露目するために学ぶものではない。

すべての国民は法の下に平等である、といわれている。
しかし、それは私たちすべてが豊かに楽しく誰にも劣らずに暮らせる保証を意味してはいない。法を味方にして働かずに飲み食いできる人もいれば、ひとしなみ以上に仕事をして多額の納税をする人だっている。どちらの人生を選ぶかは、法にさだめられていない。もし、前者が増えれば、国家はたちゆかなくなるので、負担のバランスを是正するように法制度が変わっていくだけだろう。それでは、いずれ前者に陥るかもしれぬ後者にも無慈悲な未来が待っている。法のお世話になるひとを増やさないために、私たちには最大公約数的な倫理が必要なのだ。

法は人生において万全ではない。
思想や信教の自由をかさにきて、殺人、傷害、盗難をしてよいわけではない。だが、子どもの「なぜ、それをしてはいけないか」に応えるために、刑法や罰則を持ち出すのは、なにか味気なくはないか。どこかの時点で、譲り合う優しさや許されたり愛されたりした記憶があれば、その人は加害者にならなかったのでは。人間は誰しも狂気に満ち、まかりまちがえば犯罪者にすぐさまなれる、そんな自分の悪魔らしさを知っていれば、いや、知っている人間ほど、ひとを傷つけてはいけない理由を説けるのではないか。私はそんな気がするのである。

「レ・ミゼラブル」の主人公は、貧苦が過ぎたがゆえに小さな盗みを働き、収監され、のちに別人として大成し、惹かれ合う若者たちにはよき恩人となった。だが、彼は脱獄という法破りのせいで、終生その人生を苦しめられていたのだ。法はときに無情で善き人々を苛むことさえある。法律が犯罪者を生むことすらある。

すべての法を完全に守り切り、罰せられたことなどもない、何ごとに置いても正しい人間――などという者はこの世にひとりだに存在しないのであろう。


(2024.05.05)









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