陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「アンサング・ヒロイン」(二〇)

2010-12-25 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女

しばらく蓋をしたように沈黙が流れた。沈黙にふたりの気持ちが流されてしまった。
気まずくなったあたしは、逃げ場を求めていた。いらいらしてるのは、きっとお腹が空いてしまったせいだ。うっかり食ったタコのせいだ。場所を変えれば気分も変わる。あたしの経験がそう語っている。

ほんとは、まっさきに謝らなきゃいけないのに。
さっきだってそうだ。あたしが起こした癇癪玉を、こいつは機転で傘の下に隠してくれた。知らないファンにのこのこついて行っちゃだめなのに、言われるままに拉致されてきたのはなぜか。アイドルの鉄則その8:不機嫌、不健康、不細工は道を失う。だが、気持ちの抑制ができないのは、あたしの弱点のひとつだった。これぐらいの空腹で、気持ちが荒れることなんてなかったのだ。あたしのわずかに痛む良心が、そうつぶやく。でも、あたしはとっさに逃げてしまった。幸せに包まれたあいつと、仕事を奪われたあたしから。夢だけ考えていればお腹いっぱいだった、あの青くさい時代はもう終わっていたのだ。

「…ちょっと、ベランダ出ていい? 外の空気、吸っときたいから」
「いいけど、これ持っていって」

はい、お手て出して。うっかり素直に従ったのがいけなかった。
言われるがままに手のひらを向けたら、そこにぽんと判を押したように乗っけられたものは――さっき、レーコが飲み干したばかりのカップ瓶だった。

「なに? ゴミ箱に自分で捨てなさいよ」
「…違うって」
「これに水入れてベランダの植物の水やりでもさせる気?」
「…芸能人、めんどくさ。空のコップを突き出されたら、満たさなきゃいけない。あるいは片付けなきゃいけない。そういう呪い、漫画家にはないかもね」
「つうか、さっきからなんなの、あんたこそ。客にお茶のひとつも出さないほうがおかしくない?」
「コロナはお客さんじゃないし。置きカップにしたいなら、予備のあるよ。夜明けのコーヒーはキリマンジャロでいい?」
「誰も、そこまで言うてない! つうか、さりげなく、キャラクターグッズのマグを勧めるな!」
「あ、これは限定品なんだけど、熱湯を注ぐとここにラヴリィ~な絵が浮かび上がって…」
「要らないっつうの!」

空腹だからよけいにいらいらする。喉が痛い。
ダウナー系のこいつは、同じ怒りの土俵の中に立とうとはしない。レーコはその空瓶を、ミネラルウォーターで満たして、なんらサービス精神のかけらもない無表情で渡してくれた。こいつ、なぜ、そっぽ向いて行かなかったのだろう。なぜ、あたしはクールでいられないのだろう。奪うように飲み干してしまった。冷やこい。うまい。痛い。ほのかに底に残った酒の風味が混じって、たらふくうまい。アイドルはこんな飲みかたをしないのに。

「その空瓶、今のコロナに必要なんじゃないかって思っただけ」

──今のコロナに必要だから。

あたしの目の奥を読もうとしているのか、自分の目の奥を読ませたがっているか。
どちらともつかない意味ありげな目づかいでまた、あたしを見つめている。こいつは、ガラス瓶の底を遠眼鏡よろしく瞳に押し当てたかのような、得体のしれないようなまなざしで、あたしを覗きこもうとしている。だけど、その眼鏡はどんな欲望や偏見にも曇ってはいないのだということはわかる。慎重なピンセットで築かれたボトル詰めの模型船みたいに、大事にだいじに、あたしを観察し、感情を組み立てようとしてくれている。――だからこそ、なおさら、こいつが怖い。

こいつはエスパーなのか。
さっきの傘といいなんといい。ほんとに悔しいぐらい痒いところに手が届く女だと思った。けっこう、いい奥さんになれるんじゃないの、こいつ。ただし、生活の大ざっぱなとこは見直してほしいけど。

レーコが、別の部屋から通じるベランダへ案内してくれた。
ベランダといっても、布団がやっと干せるぐらいのスペースしかなかった。もとが安普請のマンションだからしょうがないかもしれない。けれど、そこからの見晴らしはそんなに悪くはなかった。

あたしは人心地つくと、ポケットからセヴンスターとライターを取り出して火を点けた。
口から鼻にかけてすぅーっと苦い煙が通り抜けて、空へ昇っていく。

すでに雨は上がっていて、鉛いろの雲の切れ間からきれいなブルーの空が覗いていた。

──なんで今更、晴れてんの? あたしは憂鬱な気分を抱えたまま、ここにいるのにさ。

もういちど雲を呼びたくなって、青空を汚したくなって、思いっきり息を吐いた。
溜め息とまじりあった紫煙は重くてなかなか浮遊せずに、喉の近くでもたついてとぐろを巻いたようになっていた。紫煙はまるで天女の帯のように、腕や腰にゆったりまとわりついて、あたしはうっとりした。この気怠い空気にからだをいじられているのが、あたしは大好きなんだ。

淡い灰いろのトルネードに身をつつまれたあたしを、レーコは渋面をつくって眺めている。まるでドラッグを吸っているのを見咎めでもしているかのように。



【目次】神無月の巫女二次創作小説「ミス・レイン・レイン」




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